革靴がゼリーに大変身



長崎県の県立高校の支那への修学旅行は皮のリサイクルや川の魚を愛でに行くのかな?

その新憲法に記されるべき条文の内容について考えるところはいろいろあるが、私はまず、いわば形式に関わる問題から取り上げたいと思う。しかし、実はそれは新憲法の本質を左右する根本的なことである。二つあるが、一つ目は、言葉の問題である。
現行憲法の前文が悪文であることは周知の通りであるが、前文をはじめ憲法の条文は日本語の文章として格調高いものでなければならない。私は本当は文語文で書かれるべきだとさえ考える。日本人の精神の品格の低下は、文語文が持っている格調や力を失ったことからも来ているからである。口語文で書かれるとしても文語調の浸透した文章にすべきであろう。
しかし、まずなによりも私が問題だと思うのは、かなづかいなのである。現行憲法と現代かなづかいは、敗戦後の占領下で日本の伝統と文化に対して行われた破壊行為の最たるものであった。しかし、現行憲法の発布は現代かなづかいの制定の直後であったので、文章は低劣なものだけれども、まだしも「歴史的かなづかひ」で書かれている。危なかったというべきであろう。
それに対し、今度書かれる新憲法が現代かなづかいで書かれてしまったらどうなるであろうか。たかが、かなづかいの問題とすましてはならない。そんなふうにしか考えられない言葉に対する鈍感さが、現行憲法の中で惰眠を続けている原因の一つに他ならない。
今後、示される新憲法の前文の様々(さまざま)な原案が、現行憲法に対する反省から歴史や伝統に言及するのは、当然予想されるが、その文章が現代かなづかいという日本の歴史と伝統に反するもので書かれるとしたら、こんなグロテスクなことはない。憲法という根本規範が現代かなづかいで書かれたとき、これまでの日本文明がもはや、どこかの博物館に展示される過去の遺物となるということであり、現代の日本人の精神とのつながりが切れて、内在するものではなくなるということに他ならない。
私も普段現代かなづかいで書いているし、今日の文化状況で、かなづかいを「歴史的かなづかひ」にもどすことは極めて難しいであろう。しかし、憲法は、いわば日本の正統の表現としての「歴史的かなづかひ」で表記されていなければならない。でなければ、日本は言葉に何の規範もない国になってしまう。言葉に規範がなくなれば、文化も精神も道徳もすべて崩壊し、やがて基軸をなくした国家も亡ぶことになるであろう。
≪発布は明治憲法と同じ紀元節に≫
二つ目は、発布の日である。これも重要であるが、新憲法の議論の中で、この日をいつにするかという点は問題になっていないようである。私見では、それは明治憲法と同じく2月11日の紀元節(建国記念の日)にすべきである。現行憲法の発布日(11月3日、戦前の明治節)でも現行憲法の施行日(5月3日)でもない。これも、単なる月日の問題ではなく、新憲法が日本の歴史に基づいているかどうかの重要な点なのである。
言葉や暦の重要性が分からなくなっているとしたら、それこそが現行憲法のもたらした日本人の精神の浅薄化であり、それを直さずして自主憲法制定も何もありはしない。逆にいえば、新憲法が「歴史的かなづかひ」で書かれ、建国記念の日に発布されれば、それだけでも新憲法の精神の核心は発揮されているというべきである。(しんぽ ゆうじ)
浅田ますみ県議が県議会質問
文教厚生委員会ホント色々あります・・・委員長はなかなか質問ができないのですが、昨日の教育委員会でどうしても1つありまして…100斬りを授業で扱った先生について…そしたら議事進行は出るわ、やじは出るわ…しかしこんな由々しき問題を放置するわけにはいきませんから。戦うべきはしっかりと!
— 浅田ますみさん (@asadamasumi) 3月 8, 2012
百人斬り授業
法令違反の可能性



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